1996年
今から10年以上前の話ですが
サンボの世界選手権が東京代々木第二体育館で開催されました。
⇒
当時大学生だった私は
雑用スタッフとして強制徴集されました。
まだ現役選手だった私ですが、当然選手として参加できない現実だったのですが
結果いい経験をすることができました。
今思えば
「極上の暇つぶし」だったのかもしれません。
当時の思い出を書いてみます。
思い出し次第追加していくかもしれません。
「世界選手権」という堂々たる看板がついているものの
特別有名な広告代理店やイベント運営会社がついているわけではなく
毎年行われている全日本選手権とほぼ同じ連盟のスタッフが
いつもの数倍仕事量が増え
いつもの数倍忙しいだけでした。
さて今でも覚えている仕事内容は
1.各国選手団が代々木の青少年オリンピックセンターに入ってきてから手続きして部屋までの案内(の手伝い)
所詮は学生バイトなので難しい事はありませんでした。シーツを運んだり、選手団を部屋に案内するだけ。でも手続きの際、偽札チェッカーを使ってドルをチェックしていたのにはびっくりしました。日本であの機械を見るとは思っていませんでした。
2.会場の設営(の手伝い)
先ず連盟の方に書類を渡され、高田馬場のレンタカー屋に行き4tトラックを借りる。そのトラックで通常試合で使われるマット一式を代々木まで運搬。
もしかしたらこのマットは試合用のマットではなく練習用だったかもしれない。
スポーツ会館でマットを運び入れ、そして運転。運搬中、他の人たちは電車で移動して会場で待機。そして車が付き次第そのマットを設営。
確か私は車を返しに行ったので設営そのものはできなかったのかもしれません。
3.会場パンフ作成(の手伝い)
これは予選が終わった後、翌日の決勝用の勝ち残った選手やら試合結果のコピー。
みんな疲労でイライラしていて、喧嘩して怒鳴りながらやった記憶があります。
4.試合中の会場運営(の手伝い)
所詮アマチュア競技なので観客と選手とがいい加減なのですが、一応アリーナは試合会場だけなので観客は進入禁止でした。ソレを止める係りでした。しかし相手が東欧系だと一切言葉が通じない。選手か観客かも分からない。自分の無力をかんじました。
5.試合のビデオ、写真撮影
一生懸命試合をビデオ撮影しました。
しかしこのビデオ、現在手元にあります。つまり、現在の日本のサンボに全然生かせていません・・・・・
写真は全く使ったことのない一眼レフカメラを渡され苦労した記憶があります。
あれちゃんと取れていたのか今だ確認していません・・・・
6.会場撤収
あまり覚えていません。もうここまで来るとかなり疲労していたことは確か。
7.各国選手団帰国後のオリンピックセンター内居残り掃除
私を含むボランティアの方々もさすがに試合が終わってからのスケジュールまでは空いていなかった。結局、唯一暇だった私が狩り出されやった仕事がこれ。
この青少年オリンピックセンターの宿泊施設はホテルではないので、掃除をして入る前と同じ状態にしてチェックを受けて鍵を返す。という事になっていた。(現状は不明)
そのチェックがイヤらしい。姑のイビリの様だった。床を指でなぞり埃を取るんですから・・・・
掃除が終わると
各国選手団もゴミの分別なんて一切やらない国もあり、そのゴミの分別もやらされた。
他人のゴミに手を突っ込んで分別する事の辛さ・・・・
各国によってゴミの匂いが違う!小雨のぱらつく中、建物の木陰で一人5時間分別していました。この経験のおかげでゴミの分別に厳しくなりました。
この思い出だけは私だけのもの・・・・・
7.なぜかカザフの選手団を連れてヨドバシカメラへ
自分の車に乗せて行った記憶があります。彼らは「アキハバラ」とガイドブック片手に言っていましたがそこまで貢献的ではないので西口のヨドバシカメラでお茶を濁しました。実際、もし秋葉原に行ったら街の大きさから収集が付かなくなったとおもいます。
そしてその選手の一人(女子)が前歯金歯だった事が強烈な印象として残っています。
しかしなぜカザフの選手団だけを連れて行ったのか?
8.ホームページに試合結果をアップ
今とは違い、当時のホームページはサホド注目されていませんでしたので、ロシア系の選手の名前が若干違っても誰も気がつかない、いい時代でした。又速報ではなく一ヶ月ぐらいしてやっと完成させたと記憶しています。⇒(当時はhtmlを直にタグ打ちしていました。)
9.PHSの料金がこの月だけ2万円
しかも繋がらない!携帯電話に通話すると割高だった記憶があります。
今ならこんな事はないと思います。これも時代ですかね。
もちろん料金は持ち出し。
10.一部の日本人選手にボロクソ言われる
「選手をサポートする体制ができていない!」
もっともだとおもいました。
しかしオリンピックが上場企業ならこの時は個人経営程度でした・・・・
逆にあの体制でよく無事?終わったと思います。
努力と奇跡の賜物だったと思います。
結局スタッフも日本人なので、言葉の分からない国の方々優先にしちゃって
自国の選手に「分かってくれるだろう」と甘えが出たと思います。
今となってはいい思い出。
ああ~もうあの方もいいお母さんと聞きました。
11.米国選手団を大久保のホテルに連れて行く
初めから彼らは試合後5日ほど滞在する予定でそのお金も連盟に払っていた。しかし代々木は追い出されてしまった(つまりは手続きミス)。そのためホテルを連盟が用意するのだが、結局勝手知れた(そしてお値段もお手ごろ)大久保のホテルを手配。
ちょっと日本通の選手に「ツレコミリョカン?」と言われた。違うって!!ココでした⇒
他にも色々あったのですが、10年以上経つと良くも悪くも忘れています・・・・
結果
「風邪薬を飲んで居眠り運転をして単独事故を起こす」という
つまらない結末を迎えるわけで
自分としてはこの一連の事は最近まであまり「いい記憶」ではありませんでした。
しかし
30歳をすぎ、組織の末端ではなくなったので、少しはあの当時の責任者の方々の苦労は自分に比べればたいしたことなかった事が分かるようになりました。
又、私の知らないレベルで沢山のご苦労があったことと推測します。
色々勉強になりました。学生時代最大のイベントでありその後の人生に多少の影響を及ぼしたことは間違いありません。
さて
この先
また
あのような規模のイベントがあったらどうするか?
もちろん喜んで
参加させていただきます。
当時を知る数少ない人間としてあの時以上の労をご提供したいものです。
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